一昔前、ちょっと気の利いたお宅には百科事典のひとそろいが必ずあったものだが、今や日本の住宅事情からして、何十巻もの百科事典は評判が悪い。今、百科事典というとネットである。インターネットそのものも百科事典といえるが、それだけでは情報が玉石混淆すぎて使えない。頼りは百科事典サイトである。私がよく使う百科事典サイトはWikipediaだが、これがすごい。
Wikipediaは無料である。だが、質は項目数にしても内容にしても有料サイトにひけはとらない。たいていの調査から子供の宿題までこのサイトひとつですんでしまう。またWikipediaは無料であるが故にインターネットにそのまま開かれており、Wikipediaを使うつもりでなく単純に検索エンジンに入力していてもWikipediaの項目に行き当たる。調べるということの中心が本から検索エンジンにかわっている今、普通のインターネットライフでもWikipediaに出会う確率は高いことになる。実際、私もWikipediaを知ったのは調べ物をしていて、検索エンジンから偶々Wikipediaにとびこんだからだった。
これだけのものが無料で公開されてしまったのでは、いわゆる旧来型の百科事典は書籍版、CD-ROM版も含めて壊滅だろう。インターネットでは紙代も印刷代も製本代も、またCD-ROMのプレス代もいらないから、なんでもきわめて安く提供できてしまう。いわゆるチープ(安さ)革命である。インターネットでは情報は情報そのものとして流通し、情報をのせる場としての紙もCD-ROMもいらない。その分、発信コストがほとんどゼロに等しい
それでも質の高い情報の執筆料や編集料は誰が負担するのだろうという根元的疑問が残る。実はWikipediaはインターネットを見ている不特定多数がボランティアで執筆しているのだ。まさにインターネットの双方向性を活かした事典であるといえる。Wikipediaのもっともすごいのは、不特定多数の書き込みをほっておくだけでは玉石混淆となってしまい使い物にならなくなるところを、多数の監視と修正で良質な状態を保っていることである。アメリカ版の実験では、わざと間違いに書き換えておいても数時間以内で修正されたという(梅田望夫「ウェブ進化論」)。また政治的に対立のある項目などは不毛の書き換え合戦がおこらないようコントロールがなされていたりする。権威のある事典でも結構間違いがあるのは巷間知られているところで、Wikipediaに少々の間違いがあるとしても、実用上はまったく問題がない。
インターネットは情報のチープ革命をもたらしたが、それに加えて、Wikipediaのようなものまで現れてきたのでは印刷業界としては立つ瀬がない。なにせ業界のインターネットに対する悪口の切り札、玉石混淆問題を解決してしまっているのだ。インターネットが本に対して脅威ではないと言い切るときの決まり文句は「インターネットではしょせん質の高い情報はえられませんよ、編集と校閲の行き届いた本こそが、信頼できる情報の証です」だった。これがそうではなくなる。テクノロジーはインターネットの玉石混淆問題をさえ乗り越えようとしている。
それでも本には保存性・閲覧性・携帯性などまだまだ利点があるのは確かだ。特に閲覧性(読みやすさ)・携帯性(もちはこび易さ)は電子ペーパーが本格化するまで本の最大の利点であり続けるだろう。印刷屋としてはそこに絞り込むしかないのだろうか。どちらにしても、大部の百科事典などという注文はもう二度とやってこない。この時代にはこの時代の印刷屋のあり方を追求すべきだろう。まずそれには何をやるべきか・・ とりあえず、Wikipediaででも調べるか!?