ついに、120回である。12ヶ月×10年なのである。これだけ長く続けられたのも、みなさまのご声援のおかげと感謝致しております。
10年前、私は「活字が消えた日」という本を上梓した。この連載そのものが、おそらくこの本を見ての依頼だったし、その後、私がいろいろな研究会などに顔をつっこむことの端緒にもなったのもこの本だ。
「活字が消えた日」は文字通り「活字」が消えた日、つまり活版印刷から、電算写植平版にかわっていた日々を書いたものなのだが、実はこの書名には出版社のしたたかな戦略があった。「活字」と言ったときには、文字通りの「活字」だけでなく、本全体とか、文字文化そのものとかをあらわすことがあるからだ。この書名は鉛の「活字」の衰退の日々を追いながら、本そのものが廃れてなくなっていくということを描いていることを想起させた。この書名で売れたということもかなりあったと思う。
そしてそれは事実になった。この連載の10年間は、後者の意味つまり「本文化」の衰退の日々でもあった。第3回では早くも電子出版をとりあげている。このころの電子出版といえばCD-ROMのことであった。実際、連載の始まった1995年には「CD-ROM版新潮文庫の100冊」が発刊され、多くの読書人は驚いたものだ。しかしCD-ROMは結局電子出版としては主流になれなかった。今から思えば、CD-ROMは普通の本の欠点をそのままもっていた。「載っていない情報は載っていない」のである。本にしても、CD-ROMにしても1995年版の年鑑には1996年の情報は載らないのである。これは、当時の媒体では当たり前であって、誰も疑いもしなかった。今にして思えば、CD-ROMは発想が本からあまり遠ざかってはいなかった。なのに、印刷会社はこれからはCD-ROMの時代だとかいって一所懸命取り組んだものだ。
1996年、その後の文化を根本からかえてしまうとんでもないものが一気に表に出る。インターネットである。この連載でも、その衝撃の大きさと印刷業に与える影響を書き続けてきた。インターネットは今までの本の文明を根底から覆してしまった。まず、それは「どんなものでも載っている」メディアである。ネットの情報は更新され続ける。そして、毎日増殖を続け、ありとりあらゆる情報が載るようになった。今まで、全集本の独断場であった古典文学などは、ネット上でいくらでも只で読めるようになった。
また、インターネットは誰でも容易にマスコミになりうるという歴史上かつてないメディアとなった。インターネットに情報をだすのに自費出版ほどの費用もいらない、しかも本のように情報としてまとまっていなくてもいい。どんな断片的な知識でもそれなりに載せられる。個人が載せたければ、いくらでもインターネットにのって流れていく。しかも、限られた範囲しか思いが届かない街角の「私の詩集」と違って、ハイパーリンクという手段は、大衆の興味にあえば、燎原の火のごとく思いが広まっていく。大企業をホームページひとつでやりこめる個人が輩出したりした。
印刷会社はこの間「仕事が減ったなあ」と嘆くばかりだった。情報の伝達というと、テレビラジオ以前は印刷物しかなかったし、テレビラジオ以後も、文字情報は印刷物の独占だった。それが崩れたのだから、「仕事が減る」のは当たり前だ。それならと、オンラインジャーナルとか、ホームページコンテンツサービスとかにのりだした会社もある。うちもそうだ。でも、結局、10年やってみてわかったのは印刷ほどの売り上げはあがらないということだ。当たり前だ、印刷しないのだから。
さて、次の10年。なにがおこるだろう。案外、紙は見直されるかもしれないが、わからない。確実なのは、私が「『若』旦那」ではなくなることだけだな。