第132回 20年目の展示会|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第132回 20年目の展示会

 私、入社20年を迎えた。この業界、特に経営者の方々には40年50年なんていう方は珍しくないので、まだまだ経営者としてはかけだしではある。蛇足だけれど、11年目のこのコラムは入社してからの期間の半分以上書いてきた計算となる。よくおつきあいいただいたものだ。ありがとうございます。


 20年前、入社して一週間たつかたたないかの時に、今は亡き父に連れられIGASを初めて訪れた。まだ晴海の頃だ。見る物聞く物はじめてで、展示されているのが、印刷機なのか製本機なのか組み版機なのかも区別がつかなかった。父は太ってエルギッシュで、いかにも社長らしかったものだから、あちこちのブースで呼び止められ、それぞれの機械の営業マンと談笑しながら豪快に機械を買っていた。思えばバブル前夜だった。


 それから、国内外いろいろな展示会を見てきた、IGAS JGAS PRINT IPEX DRUPA。楽しかったなあ。それぞれの時代、それぞれの機械があった。20年もこの業界にいると、夢の試作機が、画期的新製品となり、売れ筋の商品となり、やがて陳腐化し、製造中止となり、忘れさられていく様を見ることもできた。私が印刷業界にデビューしたころ花形の新鋭機だった電算写植も、陳腐化し、見捨てられ、やがては維持しようにも部品もないという状態になり、歴史の中に消えていった。


 画期的新製品が必ずしも花形になっていくわけでもない。コンピュータのデータを直接印刷機に送り込み、ただちに印刷できるダイレクトイメージング印刷機の登場は衝撃的だった。シカゴの会場では初めて見るダイレクトイメージング印刷機は黒山の人だかりで、近寄ることすらできなかった。すぐにでもこういう印刷機が日本の印刷業界を席巻するのかと思っていたら、いつのまにか廃れてきている。


 組版・製版界ではデジタル化という大津波が通り過ぎていく過程で、さまざまな機械やソフトが展示会に登場しては消えていった。ただし、この世界は価格破壊という荒野の中に、寡占化したDTPソフトだけが屹立して終わってしまった。なんのおもしろみもない。そして20年たった展示会場で、結局あいもかわらずまわりつづけていたのはオフセット印刷機だったのだ。一番大きいブースの一番いい場所に座り続けたのはオフセット印刷機であるのは20年前も今もかわらない。人は印刷機の前にこそ集まる。


 この20年間、私はオフセットの次の印刷方式が何になるかを考え続けてきた。未来を見据えてといえば聞こえは良いが、うちはオフセットではあまりに後発だったから、オフセットで印刷業界の中で勝ち抜いて行くより、次の時代の次の機械で先手を打とうと無意識に思っていたのだと思う。オフセットには細かい改良が加え続けられていたが、そんな小さい改善などなんの意味があると私はどこかしら小馬鹿にしていた。地道な努力を嫌っていたのかもしれない。オフセットの先人たちが、活版業者に蔑まれながらも、品質の向上をなしとげ、やがて活版を業界から放逐してしまった故事(いまや故事といってもさしつかえないだろう)を何度も反芻していた。


 私が組版・製版のデジタル化やオンデマンド印刷機の普及を追い、インターネットに印刷業の未来を見続けていたころも、実は印刷業界の主役はオフセット印刷機であり続けた。結局、印刷業界で勝っていたのも、地道に「改善」を積み重ね続けるオフセット印刷の会社だった。過激派若旦那としては当たり前すぎておもしろくない結論だけれど、これは素直に認めないといけないだろう。


 さて、20年目の若旦那はこの反省の上に、来年から何をやって生きていこうか。



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