第100回 DTP時代の組版原則|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第100回 DTP時代の組版原則

 このコラムがついに100回になった。第1回は1995年1月号で、それ以来一回も休まずここにいたったわけで、これも読者諸兄の応援のたまものと感謝する次第。このコラムを引き受けた頃は、うちは活版をやめたばかりという時期で、電算写植が光り輝く最新システムに見えた物だ。それから、DTPが流布し、出力はフィルムからCTPとなり、印刷もオフセット一辺倒からオンデマンドという選択肢ができ、インターネットというとんでもない印刷のライバルが現れた。


 たった8年の間に本当にとてつもない変化を経験してきたものだと思う。印刷工場の主役はいかにも職人然とした活版の熟練工が、コンピュータを軽やかに操る女性オペレーターにかわっていったのだ。ただ、活版の職人も多く工場に残った。活版の職人が電算の職人にかわることで、組み版規則のような物は完全に伝承されたと言って良い。たとえ、元活版の職人に電算機の操作を直接させることがなかったとしても、よき先輩としてアドバイザーとして、組み版の伝統は電算の時代にも受け継がれていた。


 活版の職人は体裁の悪い組み版を見るとこういったものだ。


 「気持ちが悪い」


 どこがということは言わない、むしろ彼らは言えない。行間が、行長が、禁則が全体として職人の感性にさからうのである。それは、活版職人が体で組版というものを覚えていたからなのだ。10年の修行期間のうちに、指先から体の中に組み版原則が染みこんでいったのである。この感性による組み版原則の保持といったものは、しかし、今や絶滅の危機に瀕している。もう伝えられる人が老いて、工場から去っているし、新しい電算、いやDTPのオペレーターには体で覚えるような修行期間は与えられていない。


 だから、というわけではないが、組み版原則が守られていない印刷物にお目にかかることが多くなった。ひとつには、DTPは自由度があまりに大きすぎるということがある。活版では不可能だった詰め組や平体・長体は申すに及ばず、写真と重ねたり、図形と組み合わせたりなんでもできてしまう。こういった機能は機能としてある限り使いたくなってしまうのが人情だし、デザイナーという人種が、珍奇と新奇を取り違えている。


 活版でつちかった組み版原則は活版の技術的制約によるところが大きかったとはいえ、それは欧文ではグーテンベルグから500年、和文では本木昌造以来150年の伝統が積み重ねられてつくりあげられたものだ。「読みやすさ」という観点から練りに練り上げられているといってよい。だから、それはそう簡単にはかえてはならないものだ。しかし、今のオペレーターがデザイナーの珍奇な組み版要求に「そんな気持ちの悪い組版はできない」とつっぱる勇気があるだろうか。ないならもって欲しいのだ。自分の技術にもっと自信をもって欲しい。そのためには勉強も必要だろう。


 さいわいなことにコンピュータに慣れ親しんだわれわれは、活版職人が得意でなかった「論理思考」ができる。「その組み方は気持ち悪い」ではなくて、「行間は行長の2.5%」といった思考法である。いまだ組版教育というと昔ながらの実例にもとづく感覚教育がまかり通っているが、これは数値でパラメーターを入力するDTPにはいかにも不向きだ。すべてを数値と数式であらわし、その関係性を論理的に把握するといった組版教育が必要だろう。DTPオペレーターやデザイナーにこうした組版原則を伝えていくのは、活版とDTPの両方の時代を見てきた私たちの世代だろうと思う。


 しかし、単純に新しい物を礼賛していただけの俺がこんなことを言い出すとは年をとったもんだ。100回だものなあ。



ページの先頭へ