TeXとかいて、テックスとは読まない。日本ではテフという人が多いが、テックというのもよくきく。実際の発音はテッハが近い。バッハの「ッハ」という音だ。
TeXは強力な機能をもった組版ソフトである。学術書組みを得意としていて、特に数式の表記には定評がある。いまはやりのDTPのようなWYSIWYG機能はないが、スタイルファイルを使ったマクロ機能が充実していて、定型文書組みの生産性が高い。その上ソフトの移植性がよく、UNIXでも、DOSでも、MACでも使える。また出力も選ばない。ドットプリンタやレーザープリンタは申すに及ばず、イメージセッタからも出力できる。
組版ソフトというと、ページメーカーとかクォークエクスプレスなどが思い浮かぶが、TeXはこれらのソフトとは根本的に違う。WYSIWYGができないということもあるが、これだけ強力なソフトが実は「只」なのである。「只みたいなもの」というのではない「只」なのである。TeXは、商売のために作られたソフトではない。アメリカの数学者が自分の論文が綺麗に組めてこないことに腹をたて、「それくらいなら自分でやる」と作ってしまった組版ソフトなのである。彼はこれを全世界の同じ思いの人に只で配布した。自由に使ってくれというわけだ。こうした善意でなりたっているソフトをフリーソフトといい、TeXだけでなく、数多くのソフトが流通している。
只のものの普及は速い。多機能強力な物だとなおさらだ。配布も当初は磁気テープベースやフロッピーべースだったが、最近はインターネットで配布されるので、その普及はさらに加速がついている。その上、それを受け取った人は、さらに使いやすいように改良して、また只でインターネット上で配布する。いわば、インターネットの上で改良を重ねられながら、成長するソフトになっているのだ。
只というのは、二次的にいろいろな現象をうむ。一番、重要なことは入力ソフトの事実上の標準となりつつあることだ。雑誌の組版をやっていて面倒なのは、大勢の著者がありとりあらゆるソフトで書いた原稿がやってくることだ。これを変換ソフトで逐一処理するのは、極めて面倒だし手間がかかる。そこで、入力ソフトの統一を御願いすることになるのだが、これは結果として筆者に特定の会社の特定の製品を薦めることになってしまう。そのソフトをもっていない人には買ってもらわねばならないことにもなる。これが、TeXのように只だと、実に薦めやすいのである。只だから、必要な人にすぐに手渡すことも可能だ。従って入力ソフト統一の際にTeXが選択されることが多くなり、使っていなかった人まで使わざるを得なくなる。結果、普及がさらに進む。
繰り返すが、これだけ普及したのは「只」ということ以上にソフトとしての設計思想が優秀だからである。最近ではTeX組のフロッピーが当社にもやってくるが、あまり手をいれなくてもそのままイメージセッタが出力できる
いいことばかりではない。世界中の人が、どんどん拡張していくものだから、「方言」が多くなってしまっている。大元のファイルは統一されているから、基本的には組版自体で問題におちいることはないが、あとで、追加されたスタイルファイルなどには同じ名前のついたファイルでも内容が違ったりするものがある。テフ、テック、テッハと読み方がてんでにバラバラなように、TeX自体が色々なバリエーションを産んでいるのだ。
とにもかくにもインターネットで成長しながら、全世界に普及していく組版ソフトなどというものがあらわれたことに注目しておこう。