第1回 とりあえず、自己紹介|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第1回 とりあえず、自己紹介

 中西秀彦といいます。この前の一年間、親父(中西亮)の文字コレクションが、本誌の表紙を飾っていましたが、今年一年は私のエッセイでおつきあいいただきます。家業をついだと思ったら、雑誌の連載まで相続してしまうのだから、印刷業界の世襲制も奥が深い。ただ、親父が古文書の紹介という、いわば、過去をふりかえったものであるに対して、私の連載の方はリアルタイムのコンピュータ雑記をという編集部の依頼であります。コンピュータ世界というやつ、テクノロジーは秒進分歩、メーカーは離合集散、ユーザーは右往左往というおそるべき混沌のまっただ中。一中小企業の経営者という立場で、どれくらいこの状況を切り取って、料理できるかわかりませんけれど、よろしくご寛恕のほどを。


 まずは自己紹介、京都で百二十年続いた印刷屋の若旦那をやってます。昭和31年生まれの38歳。もともとは、印刷屋をやる気なんかなくて、大学は文学部へ。ところが、大学在学中にコンピュータのおもしろさにめざめてしまい、文学部からドロップアウト。東京のマーケッティングリサーチ会社で、流行状況なんか分析してましたが、経営者の家庭に育った人間がサラリーマンが勤まるわけもない。数年で息がつまりそうになり、30を目前にして、昭和60年(1985)家業に転職、現在にいたっております。


 あれから、もう10年ほどになるのだけれど、うちの印刷工場に足をふみいれたときのショックは忘れられない。はっきりいって二十世紀末の工場の姿とは信じられなかった。工場の端から端まで並んだ膨大な活字。植字の職人さんは凧糸を手先で操って、頁をつくっていく。木造の作業台は明治のころから全くかわってないんじゃないか。職人さんは高齢者がやけに多い。コンピュータと毎日とりくんでいた目にはとても未来がないように思えた。もちろん、職人さんの名誉のために言っておくけど、その職人術は大変なものだとは思った。熟達の文選職人さんは、ワープロ打つよりはやく活字を拾ったりした。


 親父社長は、座してその状況を見過ごしていたのではなく、そのころはモノタイプに力をいれていた。どっちにしても、親父の信念は「印刷の王道は活版」だったのだ。モノタイプには、歯車とテコのような機械部品だけで、どうしてあんなに精密な動作ができるのだろうって逆の意味で驚いたね。親父はここで電算活版というキャッチフレースを考え出していた。当時そこそこ話題になったらしいから、ご存知の方もおられるかもしれない。ワープロでうったデータを変換してモノタイプ用の紙テープに出力しようというのだ。アイデアはよかったと思うよ。電算と活版のハイブリッド。お互いの長所をいかせるしね。泣きどころは、文撰は自動化できても、植字は無理っていうことだ。ハイテクの機械を使って、がんばってファイル変換やってみても、最後は植字の職人の手を経なければ頁にならない。これでは近代化っていっても限度がある。このシステムにはしばらくつきあってみたけど、どうにもうまくいかない。


 結局、電算写植の導入にいたるのだけど、それからが、てんやわんや。そのあたりのてんやわんやについては、昨年(1994)「活字が消えた日-コンピュータと印刷-」(晶文社2600円)という本で、書かせてもらいました。幸いなことに好評で、ずいぶんと話題にもなりました(書評だけで、30件以上、本誌94年12月号参照)。その結果、ここにこうして原稿依頼までまいこんできたようなわけで、ありがたい限り。これがこれだけ話題になったというのは、やはり日本中で同じ様なてんやわんやを経験をされた会社が多いということなんでしょうねえ。この連載は、「活字が消えた日」のあと何が印刷現場におこっているかをリアルタイムで伝えることにするつもりです。乞うご期待!



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