第81回 DTPは印刷会社からなくなるか|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第81回 DTPは印刷会社からなくなるか

上記表題の印刷メディア協議会主催のパネルディスカッションにでてまいりました。ことの発端は、印刷会社ではDTPなどやっていないというアメリカの印刷事情報告。アメリカでのDTPは、出版社なり、企画会社でやるもので、印刷会社のプリプレスとは面付けとRIPのことだというのだ。どのような分野であれ、だいたいアメリカのやってることを2年から数年遅れて経験するのが、日本だそうで、DTPの仕事、ひいては組版の仕事自身が印刷会社の仕事では本当になくなるのかと今回のパネルディスカッションになったわけだ。ただし、日本の状況は電算写植からDTPへの移行途中という段階で、DTPがなくなるもなにも、まだありさえしないところも多いのではないか。アメリカからは一周遅れである。


 DTPはコンピュータによる組版を安価に簡単にした。電算写植の時代までは印刷屋しかできなかった組版が「素人でも、やろうと思えばできる」ようになったことの意味は大きい。DTPの登場で組版の専門性が解体して、デザイナーや編集者と組版オペレーターというものの境目が曖昧になってしまったのだ。専門性を要求されない以上、遅かれ、早かれDTPが印刷屋の仕事ではなくなっていくだろう。


 では、印刷屋は何をやって食っていけばいいのだろう。結局、印刷屋は機械をまわしてつまりは大量に刷って、いくらの商売ということなのだろうか。アメリカは明らかにそちらの方向に向かおうとしている。しかしたぶん、日本ではそのままアメリカの真似をするのは無理。人が世界中から流入して人口の増え続けるアメリカと、印刷物の最大消費者である若者が減り、そして人口そのものも減りつつある日本では大量生産の意味づけはまるで違う。第一、紙の大量消費などという21世紀のエコロジーの時代に逆らうような方向に向かっても、長続きはしまい。それにインターネットの普及によるペーパーレス時代も、足音をたてて近づいてきている。


 私が主張したのは、普通の組版そのものはもうクライアントに積極的に任せてしまってはどうかということだ。無論、素人のファイルがトホホ(データがいい加減で印刷に苦労するようなファイル)なのは私が何度も指摘してきた通り。すくなくとも、クライアントのファイル入稿を指導したり、組版体裁についてアドバイスしたりする必要ははあるだろう。むしろ、印刷会社は、組版スタイルを決定する側に徹したり、データベースとの統合とか、インターネットへの展開等、より付加価値が見込める分野に踏み込むべきではないのか。おそらく、「こんなところに印刷の方法論が使えるとは!」と絶句してしまうような分野がまだまだあるはずだ。今までの方法論が通用しないと、たちすくんで思考停止に陥っているより、今ある方法論に何をプラスすればあらたな展望が開けるのか、問い続けるべきだと思う。


 それにしても、印刷機材のメーカーは、なんであんなにDTPの偽物ばかりを作りたがるのだろう。操作の簡単なソフトを要望したのは印刷業界の側だと言われそうだが、簡単なソフトが蔓延した結果生じたのは組版価格の暴落だけではなかったのか?DTPなんてしょせんは素人向けのものだし、いまさら何千本も何万本も売れるDTPソフトと似たような物を作ったってしようがないではないか。いみじくも、DTPもしくは疑似DTPは印刷会社の仕事ではなくなるのだ。


 今欲しいのは、少々使いにくくてもいいから自由度の高いツールだ。その意味では電算写植用のソフトも悪いところばかりではなかった。すくなくともオペレーターの工夫次第で自由に組み上げられた。印刷会社も他所と同じことをしていたのでは差別化がはかれないわけで、なんとか特徴のある仕事をするためのツールが欲しい。電算写植に戻れというのではない。DTPのオープンな思想は大いに継承すべきだ。その上で、プロが毎日使うのだから、使いこなしにくいのは覚悟の上で、会社会社で独自性を発揮でき、「儲けられる」ソフトをこそ望みたい。



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