はっと気がつくと、会社中コンピュータで埋め尽くされていた。一体今、何台あるのか数える気にもならない。一人一台以上になってしまっているのは確実だが、何台と特定することがもはや無意味になっている。各部署で勝手に導入するようになった上に、古いパソコンを分解してパーツをとり、別のパソコンをでっちあげるというようなことを社員が勝手にはじめるものだから、管理のしようもないのだ。もはや、コンピュータは消耗品。鉛筆やボールペン並だ。
ここにいたるには15年前のリース契約までさかのぼらねばならない。1987年コンピュータシステム一式を導入した。スタンドアローンではなく、ホストコンピュータシステムといわれるタイプで、中心のコンピュータと周辺機器をつなぐという形式だ。端末2台とプリンタ1台というささやかな構成だった。ソフトは別。それでも価格は百万の単位では納まらなかった。5年して、更新してリプレイスした。コンピュータの性能はあがって、価格はさがっていたから、端末の台数が若干増やせた。
さらに5年たった。つまり5年前だ。リプレイス2回10年の間にパソコンの発達はめざましく、思い切ってパソコンによるクライアントサーバーシステムに換えた。このとき、10年前のリースの枠を使うと、サーバーとパソコン6台。それにソフトをあらん限り装備してもお釣りが来た。このシステムにはあとからどんどん、クライアント(端末パソコン)を増やしていった。この間、性能はあがり、価格は下がり続けた。これだけの性能のものがこんな値段でと毎年驚き続けた。
そして、今年、このクライアントサーバーシステムがリースアップして更新となったのだが、この15年前のリース枠を使うと、おそるべき性能のコンピュータをおそるべき台数導入することができた。そして・・・
2003年、中西印刷は完全デジタル体制に移行する。フィルムレス、版下レスである。ごく例外的なアナログのフローは残るにしても、基本的にはすべてコンピュータの上で行う。それ以外のアナログ設備は廃棄するか、倉庫で償却期間の終わるのを待つ。
当時社長だった親父を説き伏せて、デジタル化に踏み出して15年たったのだなあ。その間、活版の廃止があり、親父の急死があり、なによりバブルの崩壊があった。でもデジタル化ということを信じて突き進んだら、いつのまにかここにいたっていた。15年前にいた社員はもう数えるほどだ。今やコンピュータ導入後に入社し、コンピュータを使いこなす社員が主流になってしまった。
今になってみると、あのリース枠は親父からのプレゼントだったような気がする。確かにバブルの頃なら、あの程度のリース枠はたいしたものではなかったかもしれない。しかし、そのリース枠があるということが前提になっていたから、バブル崩壊後の印刷需要冷え込みの中でも着実にデジタル化の設備投資を続けられた。15年前、バブルさなかのリース枠は今になっては貴重な設備投資枠でもある。リース料を滞ることなく払い続けられたのは、我々あとの世代の努力のたまものと自負してはいるが、リース枠がなかったら、新規設備投資には二の足を踏んでいただろう。結果としてこれだけ早くフルデジタル化を達成できたかどうか。
そしてはっと気がつくと、「若旦那」中西秀彦は46歳になってしまっている。もちろん、これで終わりではない。何か新しくなれば、何か問題が生じる。まだまだ、「若旦那奮闘記」にタネがつきることはないだろう。天国の親父どのには、感謝しております。この世に私という生を送り込んでくれたことともに、こんな面白い時代に印刷屋を経験させてくれたことをね。いや皮肉ではなく。