第20回 この雑誌は有料です|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第20回 この雑誌は有料です

 とある私鉄の駅。コンクリート丸出しの駅舎にチューインガムの貼り付いた床、小走りに道を急ぐ通勤客。全国どこにでもある光景だろう。その片隅に、またありふれたキヨスクがあって、菓子類、飲み物の横に雑誌を並べていた。雑誌は全部は並べきれないのか、スタンドにはみだして、並べられている。そして私はスタンドの上に貼られた紙を見て、思わず笑ってしまったのだ。


 「この雑誌は有料です」


 そうか、今では雑誌はわざわざ「有料です」と書いておかねばならないものなのだ。駅には無料の雑誌フリーペーパーがあふれているから、それと間違えて悪気なくこのスタンドの雑誌をもっていってしまう人があとをたたないのだろう。


 しかし、よく考えるとこれは笑い事ではすまされない事態だ。私たちが心血を注いで作っている印刷物は只で提供される存在でしかないのだ。これが全ページ広告というのならまだあきらめもつく。ところが、只の雑誌、フリーペーパーには広告だけでなく、普通の記事も結構載っている。若いサラリーマンはフリーペーパーを見るだけで充分世の中の動きがわかるとのたまう。つまりは昔はお金をださないと手にはいらなかった情報が只で簡単に手にはいるようになってしまっているのだ。


 もちろんフリーペーパーも広告があってこそなりたつ。広告主から広告を集めてその料金ですべてが運営されている。従来型の新聞でも広告があるからこそ、あれほど安い価格での宅配が維持されているともいえる。つまりは広告で安くなるのか、只なのかのわずかのちがいであるのかもしれない。経済的にはそうかもしれないが、読む方にしてみれば少しでも金をだすのと只でもらうのとは雲泥の差がある。お金をすこしでもだせばそうそう粗末にも扱えまい。自分の買った週刊誌でもそれがペイするまでは読むだろう。只だったら、手に取っただけで、読まないで捨ててもそれほど良心の呵責に悩まないでもすむ。要は大事にしなくなる。


 逆から考えると、フリーペーパーの記事は広告を読んでもらうための餌のようなものでしかない。只である限り、あくまで広告が主であって記事は従であることになる。印刷会社にしてみれば、印刷代さえもらえればどっちでもいいと言うことなのかもしれないが、私はひっかかる。ひっかかり続けたい。印刷会社を経営するということ、それは印刷を単なる金儲けの手段とみているだけではない。情報を媒介することで文化に資すると思えばこそなのだ。広告の文化的価値を否定するものではないけれど、広告が主体であるような雑誌の流行にはなにか納得のいかないものを感じる。


 私たちがこどものころ、本や雑誌はことのほかステータスが高かった。本をまたいではだめとか、本に折り印をつけてはだめとか、いろいろタブーがあって、よく親や先生におこられたものだ。教育的指導もあっただろうが、情報やそれを載せた本に本当に価値があったからだろうと思う。


 いつのまに変わってしまったのだろうか。新聞を買わなくても、コマーシャルさえ見れば最新のニュースを只で手に入れられる民間放送テレビの登場がその先鞭をつけたことは間違いない。そしてインターネットの普及は百科事典も、最新ニュースもまったく只にしてしまった。情報の流通がきわめて安価になってしまったのだ。それにつられるように雑誌も只になった。このままではいずれ本も只になるだろう。


 フリーペーパーは、紙の上から、コンピュータ画面の上へとどんどん流失している若者の目をとにもかくにも紙の上に戻すという効果はあるのかもしれない。その意味でも印刷会社が敵視するような性格のものではないのだろうか。「でも」、「しかし」、とこだわりたくなるのは、私が年をとってしまったからなのかもしれないな。



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