第26回 若造の言い分|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第26回 若造の言い分

 お役所の入札があったとする。入札係官から落札価格が読みあげられると悲鳴にも似たどよめきがおこる。とてつもない低価格での落札なのだ。


「安い。赤字受注ちゃうか」「おとしたとこは計算まちがえとるとしか思えん」「仕事がいくらないにしても、常識ちゅうもんがあるやろ」


 おそらく日本全国どこにでもある光景だと思う。そうして、ひとしきり落札業者に対する糾弾の声が出た後、決まって電算に対する不満が語られはじめる。


「活版の頃は儲かったけどな」「電算になってから、値段が下がるばっかりや」「そらまあ、電算の組むスピードは速いから、こなせる絶対量が多いしな」「マッキントッシュやなんやいうては、まだ値段さげとるしなあ」


 電算のせいで、値段がさがったというのは悔しいがその通りのようだ。電算写植の時代からDTPの現在にいたるまで、ハードソフトとも、性能はあがって価格は低下している。これだけで、当然組版価格は下がってしまう。しかし、現在の入札現場などで出てくる値段は、どんなに生産性向上分を考慮したとしても下がりすぎだと思う。いくらハード・ソフトの生産性が向上したとしても、人間が組むことにはかわりないのだ。完全自動化組版などというものも話としてはあるが、よほど定型の特殊な物を除いて、有効に稼働しているという事例など聞いたことがない。やはり、1ページ、1ページコマンドを入れて行くのが主流だ。ここまで来ると、機械の性能より人間の熟練度の問題となり、今、これ以上の値下がり要因があるとは考えにくい。なのに下がる。下がり続ける。


 私が印刷業界でのコンピュータ利用を考えたとき、夢を描いていた。コンピュータの利用によって生産性があがるだろう。今まで2時間かかっていた組版が1時間でできてしまえば、あいた1時間分は時間短縮に振り向けられる。そうすれば、早く家にかえって、子供と一緒にすごせる時間がもっととれ、趣味の活動だって充分できるのではないかと思っていた。コンピュータが生み出すゆとりの生活である。


 現実に、コンピュータのおかげで、2時間かかっていた仕事が1時間でできるようになった。本来なら、ここでゆとりが生まれていいはずなのだ。ところがここで組版価格が半分になってしまった。これでは、今までと同じ時間仕事をしないと、同じ収入はえられない。それだけではすまない。単純なことだが、今までの2倍の生産力で同じ時間仕事をすれば、仕事は倍必要になる。ところが、倍の仕事は市場になかったのだ。結果、生産過剰で、生産性向上分以上の値下がりとなってはねかえってきた。これでは、がんばってコンピュータ化を押し進めて、かえって生活を苦しくさせてしまったことになる。働けど、働けど、暮らし楽にならざりけりである。


 何か、悲しい。どこかの歯車が狂ってしまっているとしか思えない。簡単なことなのだ。コンピュータによる生産性向上分は値段を下げるのではなく、時短にむすびつければいいのだ。そうすれば、生産過剰にもならないし、価格低下もおこらない。世の中にゆとりも生まれる。私の子供は3歳と1歳、帰宅すると「パパ、パパ」と一直線に駆け寄ってくる。今、このとき少しでも多く子供と遊んでやりたいし、人生を豊かにするために妻と共に趣味の世界も充実させておきたい。30代40代でこういうことを言うと、贅沢だとしかられるかもしれない。そこは世代としてあえて言いたい。欧米の先進国というのはそれが当たり前なのではないですか。若造の言い分ですが。



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