第129回 活版の復元|学会誌・学術印刷全般・学会業務受託など、文化学術の発展に貢献する中西印刷

第129回 活版の復元

 倉庫の片隅に活版の機材が残っている。はっきりいって活版印刷を廃止してからの13年間は場所塞ぎでしかなかった。埃が積み重なったその機材は薄汚れて誰も触れようともしなかったし、いつのまにか、その前に積み上げられた段ボール箱で、その姿すら見えなくなってしまっていた。それでも捨てなかったのは、先代社長(私の父)と当時の工場長の思いが詰まっていたからだ。活版といっても、使われていた当時、改善がなかったわけではない。活版の世代は活版の世代なりに、少しでも活字をよくしようと努力し、生産性の向上をめざして様々な工夫を重ねてきた。その証を一塊のゴミとして捨てたくないし捨てて欲しくない、将来に残しておきたいという思いが痛いほどわかったからだ。


 13年目、おもいがけなく倉庫が空いた。ずっと、場所がない場所がないと悩んできた倉庫が空いた。フルデジタル化のおかげだ。2年前のCTP移行によるフイルム製版全廃で第一回の倉庫整理をやった。しかしこのときは置き版フィルムはそのまま残したから、フィルム倉庫はそのまま残った。2年たって、置き版フィルム自体を利用することがほとんどなくなり、これもほとんどを廃棄した。結果、広大な倉庫スペースがあいた。突然、活版機材の前から段ボール箱がなくなった。


 段ボール箱の向こうにスライド式の活字の鞍(馬)がでてきた。植字のための作業台がでてきた。インテル(行間をあける薄い板)がでてきた。膨大な数の母型、紙型。銅写真版。鉛の地金。そして鋳造機が一台。一番奥のパレットの向こう側からは、プラテン印刷機が一台でてきた。植字台はおそらく最後の日のままなのだろう、コミや数字の活字が散乱していた。しかし、なぜか、活字そのものは多くなかった。


 埃をぬぐいながら、気がついた。これは単なる思い出置き場ではない。


 活版に必要な機材が一通り揃えてある。これの意味するところ、父は産業としての活版そのものを残そうとしていたのではないか。もし活版を復活させるとしたら、活字だけ残してあっても保存してある活字を使い果たせば、もうそこで活版は終わりだ。母型と鋳造機があれば活字は作れる。インテルや鉛地金という一見なんの変哲もない物が残してあるのもそのためと考えれば納得がいく。もちろん、鋳造機は鉛がこびりついて固まっているし、長年使っていないプラテンは錆が浮いていた。実際に、活版を復活させるのは相当な努力がいるだろう。それでも、不可能ではないという状態で保存しようとした先代は、活版が終わるとき本当に後ろ髪をひかれる思いだったのだろう


 こうした思いを受けて、倉庫の片隅に活版ミニ博物館を作った。うちでも、元の活版職人はほとんどが退職してしまっているが、かろうじて残っていた二人の活版経験者の記憶を頼りに、それぞれの機材の由来と機能を聞き、解説のラベルを作った。活版経験者はもう何年かするとまったくいなくなる。今は、話を聞ける最後の機会なのだ。解説を付けないと、父の思いがつたわらないまま、これら機材はわけのわからない鉄のゴミとなってしまう。それではあまりに先代にすまない気がした。


 最後に活版の復元を行った。元活版の職人を糾合して、組んだ状態の活版を再現してもらったのだ。機材は父の執念なのか、本当にまったくそのまま使えたという。その日、噂をききつけた若いDTPオペレーターが倉庫に見物にやってきた。十何年ぶりかでさわる活字の感触に元活版職人達は嬉しそうだったし、若いオペレーターは指先でくみ上げられる活版に驚嘆の声をあげた。うちで活版が組まれるのは本当にこれが最後になるだろうなと思いつつ。



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